10th
卜部はなぜApple教から離脱できたのかを考察する。
生まれて初めて触ったコンピュータがLC630、生まれて初めて書いたプログラムがHyperTalk、そういう人間だから当然だけど、Finderこそが究極にして至高のシェルであると信じていたし、AppleのHIGは聖典だと思っていたし、まあその、痛い子でしたよ。ええ。
ところがふと気づいたら身の回りにりんごマークがない。高島屋で並んでOSXのPublic Beta買ったはずなのに、いまそのOSが動くマシン持ってない。iPod初代から何個も使い潰したのに、いつのまにか壊れて買い換えずそのまま。このあいだちょうどノートPCが破損したので買い換えたけど、すんなりVAIO Xで悩みもせず。俺どうしたんだろうね。せめてMacBook Airくらい検討してもいいはずだよね。
高価? まあそれはそうかもしれないが、大学生の俺があれだけiPodバカスカ使い潰してたのに、社会人になって今の俺が当時より困窮してるってことはないんだよな。囲い込みに嫌気がさした? いやでもLC630の最後の方はNetBSD/mac68k入れてたくらいだしな。ジョブズ嫌い? んー、でもそれも微妙にMac使わなくなった時期と外れてるんだよなあ。
つらつら考えるに「マインドコントロールが解けたから」としか言いようがない。
うまく言語化できないが、こういうことだ。蕎麦屋さんに入ると、もりそばという商品があるが、これになぜか刻み海苔をひとつまみほど載せただけで、突如料金が100円も上乗せされてざるそばという商品にジョブチェンジする。もちろんざるそばのほうが「上等」だな。でも蕎麦というエクスペリエンスの中で中心にあるのは、蕎麦なのであって、海苔ではありえない。だから、蕎麦粉で勝負してるもりのほうがいいかげんなざるよりうまいということもあろう。何が言いたいかというと、コンピューティングというエクスペリエンスの中であのりんごマークはどこまで本質的かという疑問が、あるとき俺の中でふと沸いたわけです。あれはざるそばの刻み海苔なんじゃねーのか?
もうちょっと具体的な話をすると、まあ俺の中で最近身近にあった話としてノートPCの話で考えるけども、MacBook Airはキーボードはフルピッチだし、Core2だし、GeForce積んでるし、りんごマークがかっこいい。これらはすべて、俺がチョイスしたVAIO Xにはないものだ。だから、おじいちゃんの遺言でどうしてもGeForce使わないといけない人は…でもさ、べつにGeForceだけを基準に選ぶならMacBookじゃなくてもよくね? Core2を基準にして選ぶにしてもあえてMacBookじゃなくてもよくね? 結局今って、Macとそれ以外を隔てる決定的な差って、あのりんごマークしかなくね? ハードウエアだけじゃなくてOSだって所詮UNIXじゃん。所詮Boot Campじゃん。
俺がある時気づいたというのは、「他の○○と比べてAppleだとこんな長所が〜」とか考えている俺、という存在なわけよ。それってつまり、比較という文脈で語れちゃってるわけ。大昔だったら例えばPhotoshop使いたいとかならMac一択だったのね。そこには比較という行為は存在しなくて、ともかくそれしかなかった。けど今って、あのりんごマーク以外のものはとりあえず他でも実現されてるんだな。もちろんそれぞれの商品にそれぞれの取捨選択があるから、Macとまったく同じものは売れてないかもしれない。けど、刻み海苔が乗ってなくても蕎麦として失格ということがありえないように、Macでないからという理由でコンピューティング失格とはなりえないんだね、今日では。これに気づけたから俺はApple教から抜け出せたんだとおもう。
んー、なんか上手に言えてない気がするけど、まあそんな感じです。俺がApple製品買わなくなった理由は。